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今までに食べたコンテンツから栄養を得る

知的生産

 

以前のエントリーで、日経新聞に掲載された辻原登氏の話を書きました。

その主張の内容は、おおまかに言うと

 

個人の中には最初からオリジナリティーがあるわけではなく、空っぽである。

書くな、読め。

読んで、読んで、読んで、書くときはまねればいい。

 

というものでした。

外部のコンテンツを読みまくることで、徐々にオリジナリティーが形成されてくるのではないか、という大変興味深い指摘です。

作家の香納諒一氏も「読書というのは物書きにとって最上にして不可欠の趣味です。本は読んで読んで読みまくりましょう」と述べています。

逢坂剛氏も「いかに子供のころたくさん本を読んだかが大きいと思うけれども、作家を志すなら、いまからでも遅くはない。」と述べています。

 

膨大な読書が作家にとって創作の源泉になる、というケースは決して珍しいことではなさそうです。

 

さて、ここで一つの疑問が頭をもたげます。

それは「本じゃないとだめなのか?」という点。

 

例えば、映画。

例えば、マンガ。

音楽、絵画、ゲーム。

 

個人の中が最初空っぽで、後から消費したコンテンツによってオリジナリティーが形成されるとするなら、本に限らず、全てのコンテンツが知的個性の形成に影響するのではないか。

消費したコンテンツの総量が、(その人が将来生み出すかもしれない)コンテンツの質に寄与するのでは。

 

言うまでもありませんが、日本はコンテンツ大国です。

世界に誇れる作品で、溢れかえっています。

「いままでどのくらい娯楽コンテンツを消費してきましたか?」

と尋ねると、多くの日本人は

「お前は今までに食べたパンの枚数を覚えているのか?」

と答えるでしょう。

食べたパンの種類や枚数が、多様な個性の形成につながり、ひいてはコンテンツの豊かさ、質の向上に結びつくと仮定すると、日本人は世界的にみても優位な創造的ポテンシャルを秘めているのではないか・・・と考えてしまうわけです。

 

これもまた、「そうだったらいいな」という希望的仮説です。

たくさんの作品に触れることは、必要条件であっても十分条件ではありません。

漫然とコンテンツを消費するだけで優れた作品が生み出せるのなら、誰も苦労はしないはずです。

ただ、本を読むこと、コンテンツを消費することは、当人にとって決して無駄な営みではないのではないかと思うのです。

 

一つ例を挙げますと、多くの作品に触れることで「目が肥える」ということがあります。

自分だけのこだわりが生じてくる。

これまで気づかなかった細部に目が届くようになる。

ベストセラーなのにイマイチな作品、逆に世間の評価が低くても個人的には好きな作品、というものが出てくる。

 

プランニング・ディレクターの西村佳哲氏は「本人の『解像度』の高さが、その人のアウトプットの質を決める」と述べています。

この「解像度」を高めるチャンスが、日本には多く転がっているのではないでしょうか。

 

漫然と消費してきたコンテンツを「資産」に変えることができれば、きっと面白いことになると思います。

渡部昇一氏の言葉を借りますと、「日常的体験の積み重ねを一挙に活性化し、豊かな水源にする」

その手法は、まだわかりません。

「アウトプットを常に意識しておく」

「とにかくアウトプットしまくる」

「自分の『好き』に徹底的にこだわる」

など、いくつか仮説はありますが、今後の実践と検証が必要です。

 

 

日本人は今日も大量のパンを食べます。

食べたパンからどのくらい栄養をしぼり取れるか。

それはパンによって決まるのではなく、本人の意識によって決まるのかもしれません。