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脳の中を片付ける方法

知的生産

 

少し前のことです。

 

おもしろいこと、ためになることを書こう。

読んだ人を楽しませるような文章を書こう。

そう意気込み、パソコンの前に座りました。

 

しかし、書く内容が出てきません。

これまでの人生、思うこと、考えることはあったはず、と思いながら頭をひねりますが、一向に思いつきません。

全て忘れてしまったのか、そもそも書き出すほどドラマチックなことは何も経験してこなかったのか。

 

半ばあきらめかけていたとき、渡部昇一氏の著書の中で、面白い記述に出会いました。

それは、清水幾太郎氏の『わが人生の断片』という本の内容を引用しつつ、情報の収集・発信について述べたものでした。

 

『私の持論によれば、表現されたものだけが本当に理解されたものなのであるから、表現の辛い努力を経ない限り、大きく、広く、深くなったと言っても、要するに、知識の断片の集合で、エントロピーの大きい状態であろう。エントロピーが膨れ上がってしまった後に、一度に整然たる作品が書けるのは、天才だけである』

清水幾太郎著『わが人生の断片』より

 

「情報を集め続けることは、エントロピーの増加していくプロセスだと解釈しうる」

渡部昇一著『発想法』より

 


エントロピーが大きい状態。

乱雑さ、無秩序の具合が大きい状態。

つまり、脳の中が散らかっていて、整理されていない状態になっているのではないか。

 

私はこの箇所に、大きな感銘を受けました。

というのも、脳の中を整理できれば、誰でも書くことを見いだせるのではないか、と勝手に希望的観測を抱いたからです。

 

希望的仮説

何も書くことが思いつかないのは、忘れてしまったからでも、重要な体験をしてこなかったからでもなく、脳の中が散らかっていて、すぐに引き出せないからではないか。

 

 

ではどうすれば脳の中を整理できるのか。

前述の渡部昇一氏の著書には2つのヒントが紹介されていました。

一つは発想の井戸から、水を不断に汲み出し続けること。

もう一つは異質な体験をし、その視点から今までの体験を見ること。

 

後者については、ユダヤ教・キリスト教の古典的名著を精読し「異質な視点」を持つにいたった山本七平氏の例、不愉快な体験を忘れずに保持しつづけることが発想の源になる例、海外体験の効用などが紹介されています。

大変面白く、示唆に富んだ内容でしたが、私自身がいまだ実践できていないため、ここでは触れないようにします。

 

さて前者の方法。

発想の井戸から、水を不断に汲み出し続ける。

無理にでも書くこと、表現することを繰り返す、という方法を試してみました。

 

結果から言いますと、効果絶大でした。

(情報教材の広告のようですが・・・)

自宅では気が散るので、ノートとシャーペンだけ持って喫茶店に入り、思いついたくだらないことをそのまま書く。

ブログと違って、人に見られないわけだから、アホなことでも書く。

時事ニュースや読んだ本の感想、自分の好きな娯楽コンテンツのことなど、つらつらと書く。

すると、書いているうちに自然と内容が膨らんでいきます。

書き出す前は思いもしなかったことが、書いている最中に突然思い出される、という経験を何度もしました。

忘れていたことが、書くという行為によって思い出される、というのは大変不思議ですが・・・。

 

自分にとって、最も筆が進むパターンは、本棚の前に行って、「なんとなく印象に残っている本」をもう一度読む、という方法でした。

理由はよくわからないけどハッとする箇所。

それは違うんじゃないか、という箇所。

読んだとき、自分の中でモヤモヤと湧いてくるものがあるのです。

ちょうど沼に石を投げ込んで、底の泥が巻き上がるように。

そこで本を読むのを中断して、紙に書く、というパターンが最も打率がよかったように思えます。

心の琴線に触れる文章を読むと、非常にたくさんのことが連想され、浮かんできます。

そして、いったん外部に書き出すと、頭が安心してスッキリするという感覚もありました。

 

 

当初に意気込んでいたような、面白い文章、読んだ人がわくわくするような文章は、もちろんまだ書けていません。

しかし、何かを書くことで自分自身でも意識していなかったものが搾り出されてくる、ということは確かにあると実感しています。

書きこんだノートを数カ月たってから見返すと、「俺はこんなこと考えていたのか」と驚くこともしばしばです。

 

今年に入って、ブログを始めました。

エントリーを書くこと、書き続けることで、日々の雑想が死蔵されないようにしたいと思っています。

 

発想法

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