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「オリジナリティ」は自分の外にあるのか?中にあるのか?

知的生産

 

すこし前の日経新聞に、作家の高樹のぶ子氏、伊集院静氏、辻原登氏による座談会が掲載されていました。

その中で辻原氏が、たいへん興味深い発言をされています。

 

「僕が学生に教えているのは、『書くな、読め』ということだ。

読んで、読んで、読んで、書くときはまねればいい。

『君の中にオリジナリティーなど一つもない』という。

まずそこから出発しないといけない。

今の若い人はみんな自分の中にオリジナルのものがあると思い込んでいる。

それは幻想だ。

(中略)

今の教育の悪いところだが、個人の中には大切な個性があると思い込んでいて、それを表現すればいいと思っている。

本当は何もなくて空っぽであるということを思い知らせないと、本当のクリエーティブな作業はできない。」

日本経済新聞2012.1.30より)

 

 

刺激的な指摘だと思います。

特に「個人の中にはオリジナルなものはない」という箇所には、虚をつかれたというか、「えっ!?」という驚きがありました。

なるほどなー、と思いつつ、他の作家さんの正反対の意見も読んだことがあったので、少し長い文ですが以下に引用してみます。

 

 

「人の小説を読むことが、自分の創作には少なからずマイナスになる場合が多い。

『そんなことはない、人の小説を研究することが重要だと書かれたものは多いはずだ』との主張に対しては、僕はこう考える。

人の作品を研究したことで生まれる作品など、たかが知れている。

(中略)

もっとオリジナリティのあるものを生み出すことが最重要なのだ。

個性の強い人は他者の影響を受けにくいから、そういう人はいくら他人の創作に触れても不動だし、そもそも最初から新しいものを作る傾向にあるので、作家としてデビューが早い。

個性の弱い人(換言すれば、平均的な個性の人)は、他者の影響を受けやすい。

受けやすいからこそ、平均的な個性になったのだ。

そういう人は、他の創作に触れてしまうと、ますます自分が出なくなり、新しいものを生み出すことが難しくなる。」

森博嗣著『小説家という職業』集英社新書より)

 

 

こちらも強烈なインパクトがあります。

森博嗣氏は、上記の記述の後に、「とにかく、書くこと、これに尽きる。」と述べています。

 

「読んで、読んで、読みまくれ!」派が、辻原登氏。

「書いて、書いて、書きまくれ!」派が、森博嗣氏。

 

前者は、オリジナリティや個性はもともと自分の中にはなく、外部から吸収するものだ、という説です。

河の流れから砂金を少しずつ集めて自分の中に貯めていくイメージでしょうか。

 

一方で後者は、オリジナリティ、個性は自分の中にあり、掘り出すものだ、という説。

自分という鉱山に向き合い、金脈を求めて発掘に励む感じ。

 

どちらが正しい、という話ではもちろんないと思います。

知的生産活動に「唯一絶対の道」はありませんし、人によって感じることも考えることも様々だからです。

 

ここで注意したいのが、森博嗣氏は「他人の創作物」を読むことはオススメしていないが、「外部からの刺激」一切を否定しているわけではない、という点です。

自分の個性や価値観が、過去の自分の体験や経験(外部からのインプット)に深く根ざしているのは間違いないと思います。

大自然の美しさを詩で表現するには、大自然の中に実際に立ってみることが不可欠です。

「他人の創作は読むべきでない」派の方は、その分、自分の体験・経験としてのインプットを増加させているのだと予想します。

 

創作の源泉として、自分の実体験と他人の創作物、どちらにどれだけの比重を置くか、という違いが、そのままスタンスの違いになっているのでしょうか。

作家の先生方の中にも、様々なスタンスがあって、非常に面白いと思いました。